2014 / Stephen Glenn
サイコロという物は不思議だ。突き詰めるとサイコロにしかできない役割なんてない。それでも僕達は、サイコロを振りたがる。
サイコロには基本的に1から6までの目がある。振れば、その数字がランダムに現れる。同じ事は、例えば1から6までの数字が描いてあるカードをシャッフルして引いても実現できるし、人生ゲームみたいなルーレットを回してもいい。細かく言えば「完全な無作為性」にどれだけ近いか、という違いがあるのかもしれないが、人間がアナログに操作する物に、そもそも完全な無作為性など無いだろう。
もしサイコロにしか無い利点があるとしたら、振り直しの速さや、同時にたくさん振れる、あるいはゲームの待ち時間に積み上げてピラミッドを作ったり、賭け金が払えない人の目玉の代わりに詰め込んだりする、などは考えられるが、それらもあくまで比較上の利点であり、時間と手間をかければ絶対にサイコロ以外にできないという訳ではない。
それでも、僕達はサイコロを振りたがるのだ。そこには、理屈で捉えきれないアナログな悦びがある。振る前に握りしめて願掛けをしたり、材質にこだわりを見出したり、乾いた音を立てて転がる様に風情を感じたりする。それは不思議で不可解な、けれど愛すべき「物」の魅力である。
そんなサイコロの不可解な姿を、さらに奇怪にして「サイコロとは何か」を問いかけるゲームがある。ゲームの名は「ラットルボーン」と言う。
このゲームは、「ファビュラス・フェスティバル・オブ・ダイス」というサイコロ遊びの祭典で、色々なサイコロ遊びをしながら、園内をうろついているラットルボーンというキャラクターを一番初めに見つけた人が勝ち、というテーマのゲームだ。
ゲームはサイコロを振って進行する。それだけ聞くと双六のように思えるが、全く別物だ。双六ではゴールのマスに向かって進むためにサイコロを振るが、このゲームはゴールのマスが無い。代わりに陸上のトラックのようなコースをぐるぐると周回する。勝敗は点数で決める。サイコロはゴールに向かって進むためではなく、狙ったマスに止まるために振る。
マスには色々な指示が書いてある。そのほとんどは、特殊な円形のチップを手に入れるという指示だ。では、そのチップは何に使うか。使い方は簡単だ。サイコロの面に嵌めるのだ。
このゲームのサイコロは、面を取り外して付け替えられる構造になっている。専用の「ポッパー」と呼ばれるオレンジ色の釘抜きのような物で面を取り外し、そこに新たな面を付ける。カスタム面には色々な意味があり、サイコロを振ってその目が出た時に効果が発揮される。そうしてサイコロをカスタムしながら、点数をたくさん稼いだプレイヤーが勝利する。
カスタム面には色々な種類がある。上の写真を元に、いくつか例を挙げてみよう。
まず一番左のBCG注射みたいな面は、出目をカスタムする物だ。実はこのゲーム、双六みたいにサイコロで動くくせに、出目をいじるカスタム面はこれしかない。なぜかと言うと、これが唯一にして無比だからだ。この面が出たら、1から9まで好きな数字の分進める。1から6ではない。1から9だ。流石にまるまる一周はできないが、駒は3個あってどれでも動かせるので、実質どのマスにでも止まれると言っていい。
隣を見てみよう。金色の丸いマークが描かれている。これは金貨マークだ。この面が出れば金貨が1枚もらえる。金貨はサイコロを振る前に消費すると、1枚につきサイコロを1つ追加して振れる。サイコロは最大3個だ。
その隣は、スターマークである。これはスターチップがもらえる。スターチップはスタートマスに止まった時に勝利点と交換できる。
一番右はサイコロマークだ。正式には「ロールアゲイン(振り直し)」と言う。これが出ると、振ったサイコロにもう1つサイコロを追加して、一緒に振り直すことができる。振る個数を増やせるのは、先述の金貨と、この「振り直し」だけだ。
さて、そのようにカスタム面には様々な種類がある。全部で12種類あり、1回のゲームではその内何種類かがランダムで登場する。
そして今回の話は、ここからが本題だ。
サイコロの本質は、いくつかの目をランダムに発生させる事だ。それならば面をカスタムできるこのゲームにおいて、全ての面を同じ物にすれば、ランダム性を完全に排除し、サイコロがサイコロであるためのアイデンティティーを破壊できるのではないか。
別にサイコロに恨みがある訳ではない。サイコロの角で小指をぶつけてもいないし、サイコロを目玉代わりに詰め込まれた事もないが、サイコロを振るのが核心のこのゲームで、そのサイコロ自身の核を歪めた後に何が残るのか、それが見てみたいのだ。
とは言え、実は全ての面を同じにする事はできない。このゲームはサイコロの1の面だけは変えられないルールになっている。なぜなら、1の面は「ラットルボーン」の面も兼ねており、スコアトラックを逆走してくるラットルボーンを動かすための面でもあるのだ。
逆走してくるラットルボーンにプレイヤーのスコアマーカーがぶつかった時、ゲームは終了し、そのプレイヤーが勝利する。ぶつかったプレイヤーが、一番初めにラットルボーンを見つけたという訳だ。
だから1の面は、歩き回るラットルボーンを表し、ゲーム終了のタイミングに不規則性を与え、緊張感をもたらすために無くてはならない面だ。しかし、それ以外の面は変えられる。5つの面を同じにすれば、狙った面を出す確率を6分の5まで上げられる。6分の5、つまり83%の確率で同じ面が出るサイコロは、もはやサイコロとしての機能を失っていると言っていいはずだ。
サイコロの機能を中核に据えたこのゲームが、そのルールにおいてサイコロの機能を喪失した時、果たしてゲームは尚も成立するのか。もし成立しないとすれば、ゲームを崩壊させる程の業を背負ったサイコロとは、一体どんな異形の姿をしているのか。
それをこれから、恐る恐る、見ていこうと思う。
サイコロの5面を同じにする。そのためには、5つの同じチップを手に入れなければならない。つまり、同じマスに最低5回は止まる必要がある。
いや、そうではない。プレイヤーは3つのサイコロを所持してスタートするので、3つとも同じにしなければ意味がない。同じマスに止まるのは、15回だ。難しそうだが、動かせる駒は3個から選べるので、不可能ではない。それにちょうどチップの数も、それぞれ15枚ずつある。その符合は偶然ではないだろう。もしかしたらデザイナーからの挑戦状かもしれない。「俺の用意したサイコロのアイデンティティー、壊せるものなら壊してみろ」と。
もちろん、各チップは15枚ちょうどしかないので、他のプレイヤーに1枚でも取られてしまえば成立しない。しかしそれは安心していいだろう。血走った目で1つのマスだけを凝視し続けるあなたの異様な姿に、他のプレイヤーは何の手出しもできないはずだ。
そうして、晴れて3つのサイコロの「1」以外の全ての面を同じ物にできたとする。果たしてそのサイコロは、このゲームに何をもたらすのか。
カスタム面は12種類あるので、全てのパターンを考えてみよう。
まずはスターの面から考えてみる。スターの面が出ると、スターチップが1枚もらえる。スターチップはスタートマスに止まると点数に交換できる。1枚で3点、2枚で7点、4枚だと15点になる。なるべく4枚ずつ交換するのが望ましい。
スターの面で揃えたサイコロの場合、6分の5の確率でスターチップが1枚もらえる。ほとんど毎手番に1枚ずつ増えていくと言っていいだろう。ただしマスの移動は1の面しかないので、スタートマスに着くまでに多少時間はかかる。しかしそれまでに大量のスターを集めていれば、辿り着いた時に膨大な点が得られるので、現実的に見ても十分戦えるサイコロだと言える。
しかし1マス動くためには、必ず同時にラットルボーンも動かす必要があるので、自分がスタートマスに着くのが先か、ラットルボーンがプレイヤーにぶつかるのが先か、ゲームに勝つためには自分対ラットルボーンのせめぎ合いを制する必要がある。
なんにせよ、このサイコロは健全だ。滅茶苦茶なサイコロを作ったからと言って、何も心配する必要は無いのかもしれない。
面倒な手順を踏まず、直接点数を獲得できる面もある。1から5の点数が描かれたチップがそれだ。初めは1の面を取り付け、以降は1点ずつ高い点数にアップグレードできる。
点数の構成は、1点が5枚、2点が4枚、3点が3枚、4点が2枚、5点が1枚の計15枚だ。3つのサイコロにその全てを取り付けようとする場合、例えば5点の面は初めの取り付けに加え4回のアップグレードが必要だから、5点は5回、4点は4回、という風に合計すると全部で35回同じマスに止まらなければならない。手番で必ずそのマスに止まれるとは限らないので、恐らくその2倍は手番が必要だろう。
今回の主旨には反するが、もし1個だけ完成させるとしたら、最大のパフォーマンスを発揮するために「5・4・4・3・3・1」のサイコロを作る事になるだろう。その場合、同じマスに19回止まる必要がある。もし作れたら最強のサイコロになると思うが、作るまでに時間が掛かるので、出遅れてしまうかもしれない。だが使用に問題は無い。これもまた、真っ当なサイコロだ。
ギャンブルダイスの面も、前段で取り上げた点数面に似ている。この面が出たら、別に用意された特別なギャンブルダイスを振る。
ギャンブルダイスは2から5までの点数面と、ラットルボーンの面がある。得点できる面の方が多いが、何も得られずラットルボーンを進めるだけになるリスクもある。とは言え致命的なリスクではないので、程々に効率的な得点が期待できるだろう。それに、寝ても覚めてもギャンブルばかりだなんて、実に退廃的で狂おしい生き様ではないか。もちろん、ゲームには何の支障も無い。
先程少し説明した、振り直しの面はどうだろうか。この面が出たら、まだ振っていないサイコロを追加して一緒に振り直せるという物だ。手持ちのサイコロは3個あるので、2回までの振り直しができる。
しかしいくら振り直した所で、出るのは振り直し面かラットルボーンだ。振り直し面がいくつ出た所で別の効果的な面を出し直す事ができなければ意味がないので、このサイコロはひたすらラットルボーン面を量産するだけの物になる。
それならば初めから振り直さない方が賢明だ。振り直した所で出るのはラットルボーンだ。かと言って振り直さなくても、得る物は無い。何をしたって、何も得られない。何もしたくない。こういう状態を、学習性無気力と言うのだろうか。
ゲームにとって意味を成さないサイコロが作られてしまった。こういう事もあるのかもしれない。無茶を承知で試しているのだから、こんなサイコロもできてしまうのだろう。
気を取り直して、何か気分が良くなる面を探してみる。あった。機関車のマークだ。子供達はみんな、機関車が大好きだ。大人達だって、機関車に揺られてどこか遠くへ行方をくらましたいと、いつも思っているはずだ。
機関車の面が出たら、ボード中央にある線路を機関車駒が進む。線路マスには点数が描かれており、機関車を進ませる前に、停車していたマスの点数がもらえる。点数は0点から5点まである。各点数のマスの数にはバラつきがあるが、計算すると1回の手番で獲得できる期待値は2.5点だ。
悪くない点数だと言えるだろう。ピカピカに黒光りする車体と心躍る汽笛の音に魂を奪われて、いつまでもいつまでもそれを走らせ続けたらいい。いつかそれは、あなたを見た事もない世界に連れて行ってくれるはずだ。あなたはそこで、何もかも忘れて暮らしたらいい。あなたの行方は、誰も知らないのだから。
さて、夢の機関車はあなたを乗せてどこかへ走り去ってしまったが、ゲームとしては何ら問題無い。機関車を動かすのもワクワクするし、一度作ってみたいサイコロだ。
次は株券の面を見てみよう。株券の面が出たら、ストックから株券を1枚取る(もちろんここは楽しいダイスフェスティバルなので、使うのはおもちゃの株券だ)。株券は全部で5枚あり、全てが分配された時に清算され、所持枚数が最も多いプレイヤーは10点、2番手は5点を獲得する。もし1人で5枚全てを持っていたら、15点になる。一度清算されたら再びストックに戻り、一から集める事ができる。
サイコロの5面を株券にしたプレイヤーは恐らく強烈なアドバンテージを得るだろう。3つのサイコロ全てを株券で揃えているため、株券の面は独占しており、他のプレイヤーに1枚たりとも株券を取られる事はない。
つまり全く移動せずに同じマスでひたすら株券を集めては清算を繰り返しておけば、清算の度に15点が獲得でき、ラットルボーンなどすぐに捕まえる事ができるはずだ。
ゲームでも現実でも、投機の世界では日々莫大な資産が操られ、一握りの人間が世界の富を攫うのだ。それは楽しいダイスフェスティバルでも、例外ではないらしい。このサイコロは非常に強力だ。いつか実際に作って試してみよう。
では金貨の面はどうだろう。サイコロで金貨の面が出ると、ストックから金貨を1枚取る事ができる。手番の初めにサイコロを振る前、金貨を1枚使用する毎に振るサイコロを1つ増やせる。最大は3個だ。では5面とも金貨に変えるとどうなるだろう。
その面の大部分を金で飾り立てたサイコロ。それがもたらすのは、とにかく金、金、金である。稼いだ金貨でサイコロをたくさん振り、出た目が更に金を生み出す。金が金を生む、欲に溺れたマネーゲームだ。
このプレイヤーは、点数を得る手段が無いため、ゲームに勝利する事はできない。手元に溢れる金の使い途すら思い出せないだろう。目的を見失い、ただ金のために金を稼ぐ。これはもはやゲームに興じる者の姿ではない。資本主義の作り出した、一匹の怪物である。
サイコロを遊び半分でカスタムしたせいで、怪物を生み出してしまった。しかし強欲なプレイヤーが、少し道を踏み外してしまっただけだ。そういう事も、時にはあるだろう。
次はマス目の数字をいじる「1〜9」面で揃えた場合を考えてみよう。先程も説明したが、この面が出たら1から9までの好きな数字分、1つの駒を進めることができる。「1」の面は残っているので、6分の1の確率で1進み、6分の5の確率で「1〜9」までのマス目を進む。
つまりひたすら進み続ける。マス目に止まっても、もう希望のサイコロは完成しているので、それ以上チップを取る事はない。進むだけなので、点数は増えない。他のプレイヤーが着々と点数を稼いでいく中で、点数には目もくれず、ストイックに競技場を走り続ける長距離走のモンスターと化すのだ。その目に映るのは他のプレイヤーではない。どこまで走り続けられるか、闘う相手は自分自身だ。
またモンスターが生まれてしまった。だが害は無い。本人は至って真面目だ。真摯に走り続ける姿に、心を打たれるシーンもあるかもしれない。大丈夫だ。サイコロに悪い魂が宿る事なんて無い。
次は矢印の面を見てみよう。矢印は、その面が出たら矢印の指し示す隣の面の効果を代わりに適用するという物だ。つまり矢印の先にある面の出る確率が2倍になる。地味だが使い勝手が良さそうだ。
そして5面が矢印に覆われたサイコロが出す目、それは1つしかない。そう、ラットルボーンだ。どの面が出ても、矢印を通って最後にはラットルボーンに辿り着く。振る度に、必ずラットルボーンが近づいてくる。点数も要らない、金貨もスターも要らない。ただ狂ったようにラットルボーンを呼び続ける。その耳には誰の声も届かない。ラットルボーン……ラットルボーン……。薄暗い園内に、陰鬱な呼び声が木霊する……。
これは狂気だ。本当にこれがサイコロだろうか。間違った物を作り出してしまった。こんな物を作ってはいけない。無闇に触らず、専門家に処置してもらう方が良い。
……いや、ちょっと待って欲しい。矢印ばかりのサイコロが辿り着く目は、ラットルボーンだけではない。もしも、おお、神か仏がいるのなら、このような恐ろしい物を想像してしまった僕を、地獄に閉じ込めて二度とその鎖を解かないで欲しい。もしも、そう、矢印が円環を描いたり、あるいは2つの矢印が向き合っていたら……。
その矢印は永遠にどこにも辿り着かない。まるで亀に追い付けないアキレスのようにサイコロの上を走り続け、永久に何かの目を指し示す事はないのだ。つまりそのプレイヤーの手番は、もう絶対に完了する事はない。次のプレイヤーの手番は来ないのだ。ブラックホールに飲み込まれたような虚無感。プレイヤー達は話し合って、ゲームを協議終了する他ないだろう。
僕は未だかつて、その目を出すだけでゲームが終わってしまう、いや「ゲームが永遠に終わらなくなってしまう」というサイコロを見た事がない。もしあなたも見た事がないのなら、この先も見ない方がいい。そのようなサイコロは人間の手に余る。それは、サイコロの形をした別の何かだ。
さて、次は「×2」の面だ。これはサイコロを2つ以上振っている場合にのみ効果を発揮する。もし「×2」面の他に、金貨、スター、点数の面が出ていたら、その獲得数を2倍にする。
即ちこれは金貨を使うか「振り直し」の面を出して一度に振るサイコロを増やさない限り、何の効果も得られない事になる。この試行では3つのサイコロの全ての面を同じにするという前提なので、「×2」面以外にはラットルボーンしかいない。「×2」はラットルボーンや数字の目には何の効果もないので、実質これは何の意味も為さないサイコロという訳だ。
「2倍、2倍……」と有りもしない幸福を夢想して、呪文のように同じ言葉を唱え続ける集団。その中心には1人のラットルボーンがいる。いくら唱えても、その声は中身の無い張りぼてを通過して虚空に消えるだけだ。これはまるで、カルト宗教じゃないか。このサイコロもまた、生まれてはいけない物だった。
泥棒の面は、他のプレイヤーから金貨やスターを盗む効果がある。他の全てのプレイヤーから、それぞれ金貨、スター、株券のどれかを選び、それを1つ奪い取る。当然、疎まれる行為だ。しかし1つくらいなら、笑って許してくれるだろう。
5面を泥棒で固めたサイコロ。これはもはやただの泥棒ではない。サイコロを振る度に、必ず、何かを奪っていく。躊躇は無い。他の選択肢は無いのだ。意思や理性の問題ではない。それは貧しく産まれ、奪う事を宿命づけられた盗賊団だろうか。
違う。それよりも、もっと絶望的で、容赦の無い物だ。プレイヤーが何かを獲得する度に、次の瞬間それを奪っていく。残る物は何も無い。そうだ。これはイナゴだ。空を覆い、大地を貪り尽くすイナゴの群飛だ。人々が非常な苦労の末に育てた物を、この物言わぬ破壊者は、一瞬の内に、舐め取るように蹂躙していく。通った後には、何も残らない。
これは自然の怒りだ。サイコロの面を弄ぶという罪悪が、大地の憤激を呼び覚ましてしまった。もはやここにサイコロは無い。あるのは抗えぬ巨大な力だけだ。
「1234」と描かれた面、これは振ったプレイヤーのその時の点数順によって異なる点数を獲得できる物だ。その時1位であれば1点、2位であれば2点、という風に順位と同じ点数がもらえる。つまり状況が不利であるほど高得点となる、格差是正の機能だ。
この面で覆われたサイコロは、毎回何かしらの点数がもらえるので、なかなか強力だと言えるだろう。ただ、トップにいる場合に更に引き離す事は出来ず、付かず離れずの位置を保つ堅実だが消極的なプレイスタイルだ。
……堅実で消極的? 本当にそうだろうか。先頭に立てば、後ろをチラチラ振り返りながら一定の距離をキープする。遅れたら急に小走りで付いてくる。しかしこれは勝負である。競走である。その中でずっと誰かにまとわりつくように付いてくる存在。消極的ではない。横に並んだ時、その顔はこちらを見て、きっとニヤついているのだ。いやらしく、口角を歪めて、ニヤニヤと笑いながら付いてくる。それがどのような存在か、あなたにも想像が付くだろう。
そう、ストーカーだ。その目に宿っているのは、ゲームの勝敗ではない。もっと別の、おぞましい何かだ。大自然の怒りに続いて、次は人間の奥底に潜む闇を引き出してしまった。自然に追われ、人間に狙われ、僕に安息の地はあるのだろうか?
これでとにかく12種類のサイコロが出揃った。中にはサイコロではない別の物もいくつか混じっていた。それが何だったのか、もはや振り返ってみる勇気は無い。
僕はとんでもない過ちを犯してしまったのかもしれない。ただ「ポッパー」でサイコロ面を付け替えるという、他愛もない遊びのはずだった。ほんの少しの悪ふざけが、取り返しの付かない悲劇を招く。そんな当たり前の事を、僕は平和な日常の中で、すっかり忘れてしまっていたのかもしれない。
サイコロの面をカスタムできるゲームは他にもある。これから新たに作られる事もあるだろう。そのゲームをプレイする時、あなたはどんなサイコロを作るだろうか。
その時、少しだけでもいい、このラットルボーンで生まれた、数々のサイコロや、それに似た何かの事を思い出して欲しい。サイコロの面を自由にアレンジするのは、きっと楽しいだろう。しかしサイコロのアイデンティティーを冒涜した時、生まれてくる物が何だったのか、それは今見てきた通りだ。
サイコロは素晴らしい。ゲームに緊張と興奮を加え、アナログゲームに「物」としての喜びを与える。だがその愛すべき存在は、時として恐るべき存在に変貌する。その取り扱いを誤ってはいけない。敬意を払って触れなければ、それは二度と治癒しない深い傷痕を残し、あなたを生涯苦しめる事になるだろう。
ああ、それでも僕達は、また明日もサイコロを振るのだ。
- タイトル
- Rattlebones
- デザイナー
- Stephen Glenn
- アートワーク
- Martin Hoffmann, Claus Stephan, Mirko Suzuki
- パブリッシャー
- Rio Grande Games
- 発売年代
- 2010年代
- プレイ人数
- 4人まで
- プレイ時間
- 30分くらい
- 対象年齢
- 中学生以上
- メカニクス
- ダイスロール