2011 / Martin Wallace
この地球に生命が誕生してから、その意思を持った有機物は、過酷な生存競争の中で、常により生き残りやすい別世界を求めてきた。ある者は海から陸地へ、ある者は森から大地へと自らの世界を広げ、新たな世界に適応し生き延びてきた。
高度に発達した知能を獲得し、自然淘汰の輪から抜けて文化的な生活を手に入れた人類もまた、まるでその新世界への渇望が遺伝子に刻み込まれているかのように、世界から世界へ、旅し、移住し、生活の版図を広げてきたのだ。
夏目漱石が「草枕」の冒頭で「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる」と書いているが、我々現代人も自分の所属する世界に住みづらさを感じた時、ある者は手の届くどこかへ、またある者は手の届かないほど遠くの新世界へと旅立っていく。
しかし漱石は続けてこう書いている。
「ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」
移住した先の新天地が、人の世か、それとも人でなしの国か、どちらにせよ、旅立つ者は新しい人生への期待を胸に、それが例え靄に隠れた未知の世界であろうと、ただ踏み出していくしかない。
そう、それは私が今から向かう先、私が何の予備知識も持たない世界、「ディスクワールド」と呼ばれる世界であっても、だ。
——
この空気はどこから来るのだろう。街全体に充満する、腐敗臭を伴った空気だ。この街に降り立った直後よりはいくらか慣れたが、それでも時々、思い出したように吐き気が込み上げてくる。街を2つに両断するあの下水のような川から立ち上る臭気なのか、それとも街の外れにあるという「The Shades」と呼ばれるスラム街から流れてくるのだろうか。
それに、臭気だけではない。私がこの街に妙な落ち着かなさを感じているのは、住人達の間に漂う殺気立った緊張感のせいもある。酒場の主人に聞いた話によれば、どうやら街を支配していたヴェティナリ卿という貴族階級の男が突然姿をくらましてしまい、その後釜を狙う有力者達がおおっぴらにも影ながらにも権力争いを始めているらしく、末端の住人達にもその影響が少なからず及んでいるようだ。
私はポケットから数枚のコインを取り出した。この世界にやってきた時に、知らぬ間にポケットに入っていた見慣れぬコイン。単位はドルのようで、元はちょうど10ドル分あったが、情報収集のために入った酒場で少し使ったので、今はやや減ってしまっている。
(注釈:このゲームは初めに10アンクモルポークドルを所持金としてスタートします)
差し当たって手持ち資金を増やす手段を持っていないため泣く泣くの出費ではあったが、酒場で引き換えに得た情報を整理すると、こういう事になる。
この世界は「ディスクワールド」と言って、巨大な円盤の上に世界があり、それを4頭の巨象が支え、さらに大きな亀がそれら全てを支えているという、我々の常識では理解しがたい世界だ。そして今私がいるこの街はディスクワールドでも最大規模の都市で「アンク・モルポーク」というらしい。街のほぼ中心をアンク川という汚れた川が流れており、その両岸の街がそれぞれ「アンク」と「モルポーク」と呼ばれている。両都市はさらにいくつかの細かい地区に分かれているという話だが、何しろ早口の男だったから、全ての地区名は記憶する事ができなかった。
それから、これは間違いの無いようにしておきたいのだが、私はこのアンク・モルポークという街も、ディスクワールドという世界も、全く知らぬままにやって来た。だから私がこの街や世界について感じる事は、単に私の主観がそう感じただけの事であり、実際のディスクワールドの真実の姿とはいささか異なる可能性がある。ある1つの側面から捉えた形が、別の面から捉えられる形と必ずしも同一であるとは限らず、時としてその本来の形をまるで偽物のように全く別の姿に映し出す事もある。
(注:この記事は「ディスクワールド」の原作とは一部設定が異なる可能性があります)
酒場の主人は余り詳しく語ろうとしなかったが、今ヴェティナリ卿の後継を狙っている有力者は全部で6人いるらしい。全員の名前は控えていないが、確か何々卿と呼ばれていたのが3人、それからトロール達の親玉、吸血鬼、夜警団の指揮官だったはずだ。もっとも、ヴェティナリ卿も自らの不在に好き勝手をさせておくつもりは無いようで、息のかかったスパイ達を何人も送り込んでいるという噂だ。
つまり現在、ヴェティナリ卿を含めると実に7人もの奸物が街の支配権を争っている状況であり、住人達が神経を尖らす程に治安が脅かされているのも頷ける。それも7人全員が自らの活動を巧妙に隠蔽しているため、街の人間は皆、次にいかなる事件がその身に降り掛かるのかを案じて気が気でない日々を暮らしている訳だ。
(注:プレイヤーは7人の有力者からランダムに1人を選び、その正体を秘匿しながら固有の勝利条件の達成を目指します)
そうして同じように支配者の座を争いながらも、どうやらそのやり口はめいめいで異なっているようである。例えば3人の貴族達は、配下の者達を各地区に送り込み、草の根から満遍なく影響力を増していく算段のようだ。身分の高い人間というのは、とかく大衆の視線を一身に浴びていないと気が済まない性分らしい。
また、名前は失念したが、吸血鬼の男はあの手この手で街に悪辣な事件を起こして治安を掻き乱し、混乱に乗じて街を乗っ取ろうという魂胆だ。それからひたすら街の金を掻き集めて財力で実権を握ろうというのが、トロールの主導者である。
(注:プレイヤーは担当するキャラクターによって「自分の手下駒を各地区に最も多く配置する」「トラブルマーカーを一定数配置する」「50ドル集める」などの異なる勝利条件を持っています。自分の役割を見破られないようにしながら、こっそりと、時に大胆に盤面を動かしていくのがこのゲームの醍醐味です)
さっきから何か、私がこの街の事を考える度に、妙な気持ちの乱れ、思考が妨げられるような焦れったさを感じる。一瞬意識が途切れるのに、なぜかその間も何かを考えていたような、不思議な気分になる。
疲労が出ているのだろうか。未知の世界に放り出されたストレスが、自覚しているよりも大きいのかもしれない。今夜は早めに休んだ方が良さそうだ。手持ちの金で、なるべく安く泊まれる宿を探さなければいけない。物価が異常に安いのが、せめてもの救いだ。
夜が明けるとすぐに、私はぼやきながら這い出して来た宿屋の主人に暇を告げ、まだ薄暗い街に出た。宿は長らく泊まる者も無かったように埃と蜘蛛の巣にまみれていたが、疲れていたせいか思いの外よく眠れた。
この街の朝は遅いようだ。私の他に通りを歩く者の姿も無い。雑多で汚れた街並みは朝靄に包まれて意外に悪くない風情を醸しているが、魚の腐ったような臭気は相変わらずだ。
しばらく川沿いを歩いていると、小さな商店の前に数人の人影が見えた。近づくと、何やら言い争っているらしい。店は飲食店のようで、入口の前に立っているのは店主だろう。対して道路側にはいかにも裕福そうな身なりをした2人の男が並んで立っている。大きな声を上げているのは店主の方で、2人の男は憮然としながら店主の罵声を浴びるままになっている。
2人の男は貴族か、その使いであろう。恐らく権力争いに加わっている3人の貴族の内の誰かが、この地区の支持を増すために送り込んだ配下の者だと思われる。だが、支持者集めはなかなか難航しているようだ。
昨晩宿屋の主人から聞いたが、こうした諍いはこの街では日常茶飯事らしく、特に対立する有力者の手下同士が衝突する時は大きな事件になりやすいようだ。恐ろしい事だが、そういった揉め事の影で、日々何人もの人間が当たり前のように暗殺され、朝方の川に無惨な姿が浮かぶ事もあるらしい……。私は関わり合いを避け、なるべく目を合わさぬよう通り過ぎた。
(注:ゲームは各プレイヤーが順番に手持ちのカードをプレイしていく事で進行します。カードにはいくつかのシンボルが描かれており、それらシンボルの効果が順番に実行されます。例えば人型のシンボルは各地区への手下駒の配置を表し、巻物のシンボルはカードに記載された特別なテキストの処理を表します。
また、既に手下駒の置かれた地区に更に手下駒を配置すると、治安の乱れを表すトラブルマーカーが置かれます。トラブルマーカーが置かれた地区では、手下駒の暗殺が可能になります。こうして順番にカードをプレイし、盤面の状況をコントロールして、自分の勝利条件の達成を目指すのです)
まただ。また感じる。この感覚は何だろう。突然集中力が途切れ、気分が散漫になり、僅かの間、何も考えられなくなる。それでいて自分の意識は別のどこかで何かを考えているような……、奇妙な感覚だ。まるで私の頭の中に見知らぬ誰かがいて、断りもなく私の思考を堰き止めたり、他所に流出させたりしている……、何とも表現し難いが、そんな不可解な気分だ。
しばらくそのすっきりとしない感覚は消えなかったが、街を覆っていた朝靄は次第に晴れてきた。そのまま進んでいると、この街に来てからずっと景色の一角に聳えていた、天を衝くほど巨大な塔が、霞の向こうにその姿を現した。
まるで神が戯れに一本の枝を大地に突き立てたような細長い塔が、雲に届きそうな高さで空に伸びている。立っているのが不思議なくらい細い構造物だが、何か魔術めいた力が支えているのかもしれない。塔の最上部には小さな砦のような物が乗っており、どうやって地上から登るのか、子供じみた興味をそそられる。
するとその時、塔の向こうの空から、大きな鳥のような影が現れた。
竜だ! まだ遠いが、あれは鳥ではない。長い尻尾と、同じくらい長い首を持った影。ゆっくりとこちらに向かって飛んでくる。酒場の主人が言っていた。竜が来た時はとにかく逃げろ、竜はあらゆる物を破壊し尽くす、と。
どこかに隠れなければいけない。しかし、どこに? いや、隠れたとして全てが焼き尽くされるのなら、隠れるよりも逃げるべきだ。私は周囲を見回し、
(注:カードのシンボルには、イベントの発生を表す星形のシンボルもあります。イベントカードを1枚引き、書かれているイベントを実行します。イベントは強力な物が多く、盤面を大きく変える力を持っています。例えばドラゴンの来襲では、ランダムに選ばれた地区の駒が全て除去されます。火事のイベントではサイコロを振る度に地区から地区へ次々に延焼し、建物駒が取り除かれていきます。他にも地震や暴動、爆発、それに洪水など様々なイベントがあり、プレイヤーは運命に翻弄されながらも、賢く柔軟に立ち回る必要があります)
……周囲を見回し、ええと、何だったか、いや、そうだ、竜だ、竜から逃げなければいけない。また意識が飛んでいた。逃げ道を探そうとした瞬間、頭の中で思考が押さえ付けられ、何も考えられなくなった。これは、まるで、脳が誰かに乗っ取られているようだ。誰かが私に無断で思考をジャックしている。同時に今、何かの映像が突然フラッシュバックのように頭を横切った。地図の上に並べられた、何枚かの紙切れ、いや、カードのような物、それから細かくカラフルな何か……。
どれくらい放心していただろうか。5秒か、10秒か。いや、もっとだ。空を見ると、竜がすぐそこまで来ている。このままでは、逃げきれない。頼むから、ここに降りて来ないでくれ。今ここに降りて来たら、
(注:ゲームの終了は、いずれかのプレイヤーが勝利条件を達成するか、山札が全て尽きるか、「暴動」イベントカードの条件が満たされているかのいずれかが引き金となり、その時点でゲームは即座に終了します。もし誰も勝利条件を満たさないままゲームが終了した場合は、配置している駒の数や所持金からポイントを計算して、勝者を決定します。
さて、この街の不穏に終止符を打ち、見事アンク・モルポークの支配権を手にするのは、どのプレイヤーでしょうか?)
プレイヤー……、何か今、プレイヤー? 妙な言葉のイメージが、頭に……、いや、そんな事は今どうでもいい。大きな影が、空を覆い尽くす。まるで私の周りだけが夜になったようだ。ああ、ここは私の来るべき世界ではなかった。何か、人生を変えるような、新しい世界に飛び出してみたかっただけなのだ……。
耳をつんざく竜の咆哮、巨大な鉤爪、そして……
(注:まだ誰も見た事がない世界。人の想像力が生み出した、未知なる発見に溢れた世界。そんな世界に行ってみたいと思った事はありませんか?
ボードゲームは、いつだってそんな世界にあなたを連れて行ってくれます。それが人の世でも、人でなしの国でも、きっとワクワクする冒険と、かけがけのない体験が、あなたを待っているはずです)
- タイトル
- Discworld: Ankh-Morpork
- デザイナー
- Martin Wallace
- アートワーク
- Peter Dennis, Paul Kidby. Ian Mitchell. Bernard Pearson
- パブリッシャー
- Treefrog Games, Mayfair Games
- 発売年代
- 2010年代
- プレイ人数
- 4人まで
- プレイ時間
- 1時間くらい
- 対象年齢
- 小学校高学年から
- メカニクス
- エリアマジョリティ, 正体隠匿