2003 / Friedemann Friese
あなたは「旧F邸集団失踪事件」をご存知だろうか。
余程の物好きでなければ知る由もないだろうが、F県とF県の県境にあるF村で起こった、未解決の集団失踪事件だ。
F村はF県F市中心部から、食用鮒の養殖で有名なF町方面へ車で一時間ほど、さらにそこからF岳山頂方面へ一時間ほど走った山深い地域にある人口百人未満の小さな村だ。その村から未舗装の山道をさらに進むと、昼でも薄暗い森の奥に、一帯の風景にそぐわぬ古い洋館が姿を現す。
それが事件の舞台となった、旧F邸である。
見るからに由緒のありそうな屋敷だが、旧F邸の歴史を知るための資料は現存しておらず、村の人々に尋ねても皆「物心ついた時には誰も住んでいなかった」と語るばかりで、そもそも無人の屋敷に好んで近寄る者もいないようだった。
ただ一人だけ「Fさんの屋敷には恐ろしいものが住んでいるから、近づいてはいけない」と語る老婦人に出会ったが、少々痴呆が出ているようで、どれだけ真に受けるべきかは不明である。しかし村の誰もが「F氏」という過去の所有者の名前すら知らなかったのに対し、その老婦人はたしかに「Fさん」と言っていた(私自身は警察関係の伝手と古い登記情報の一部からその名前を知っていた)。
なんにせよそういう謎の多い屋敷であるから、過去を掘り起こすのには限界がある。したがってここからは私がこれまで実際に取材した内容と、幾分か私自身の憶測も含めてこの事件に迫っていきたい。
事件は2003年、寒い冬の夜に起こった。
正確に何人が失踪したのか定かでないが、僅かな証言を頼りにすれば、その夜屋敷にいた十人ほどの人間が、一夜の内に屋敷から姿を消し、以降完全に消息を絶ってしまった。屋敷から出てきた若い男が村人に助けを求め、警察が駆けつけた時には、夥しい量の血痕と、屋敷内の片隅にうずくまる若い女が一人いるだけだった。女は正気を失っていた。
警察による検証の結果、屋敷には少なくとも七人の血液と、ピンク色の粘液状の付着物、それからかなり古い物と思われる人骨の一部が見つかった。数日に渡り屋敷内外の徹底的な調査が行われたが、屋敷内にそれ以上の手掛かりは無く、また屋敷外には血痕を始め一切の痕跡が残されていなかったことから、警察はこの失踪事件について、屋敷内で大型の獣に襲われた後、屋敷の入口すぐに乗りつけた車で立ち去ったと結論した。
見つかった二人の証言だが、女の方は証言できる精神状態ではなく、男の方も支離滅裂で正確性に乏しい発言を繰り返していると判断され、捜査上の有用な情報と見なされることはなかった。
事件は不可解な点を多く残したままだったが、恐らく失踪者たちの消息も掴むことができなかった警察への追及を避けるためでもあったのだろう、厳しく報道が規制され、一般の目に止まることはなかった。
事件から八年が経過した2011年、私は発見された二人の内、男の方(仮名でF崎とする)にコンタクトを取り取材を申し込んだ。
以下はその時私が記録したF崎の証言である。
F崎「俺たちはあの日、そう、俺の連れのF本が言い出したんだ、あの屋敷に何かすげえ金になるもんが、宝石とか、そういうもんだと思ったんだが、ネットか何かの情報だよ、そんな胡散くせえもんを信じて、それを見つけに、俺たち四人であそこに行った……。俺たちが行ったのは夜で、運転してたのはF宮だった。そしたら屋敷に着いた時、車が止まってたんだよ。俺たちは誰か他のやつがさ、その宝石か何かの話を聞いて、俺たちと同じようにそいつを盗みに、いや、拾いにやって来たんだと思って、急いで屋敷に入ったんだ……。俺たちは野郎四人だったし、怖いもんなんて何も無かったからさ、その日までは……、それで先に入ってるやつらをぶっ飛ばしてやろうと思って入っていった……」
事実、この証言にある通り、屋敷の外にはF崎たちの車以外に二種類のタイヤの痕跡が見つかっている。
F崎「俺たちは……わざと大きな音を立てながら屋敷に入った。先客がいるなら先に出てきてもらおうと思ってな。それでしばらく固まって屋敷の中を歩き回ってたら、女に出くわした。あの女だよ、あのポリが屋敷の中から引っ張ってきた、あの女だ。はっきり覚えてる。女は俺たちを見るなり逃げ出した。俺たちは女を追いかけた。別に何をしようと思ったわけじゃねえ……ただ逃げたから追いかけたんだ。女は異常にビビってたぜ……だけど俺たちじゃない、もっと何か他の物にビビってた感じだった……。そしたらその時、屋敷の外から車の音がして、一瞬ライトが屋敷の中を照らした。その時に、俺は見たんだよ、嘘じゃねえ、ポリにも散々話したが信じようともしなかったが……、俺は見たんだ、暗闇の中に、でっかい目玉が浮かんでるのを……」
ここでF崎が語った「巨大な目玉」というのは、私が裏で入手した警察の調書にも記載がある。しかし警察がそれについて何かしらの調査をしたとは考えにくい。また、この時外に現れた車が、タイヤ痕のあった第三の車であろう。
さらに詳しい状況を聞き出そうとしたが、このあとF崎は突然激しく震え出し、頭を抱えて呻くように何かを呟いたり、急に背後を振り返ったりなど、錯乱した様子を見せ始めたため、取材はそこで中断せざるを得なかった。
後年、再びF崎を取材する機会があったが、その記録は後述するとして、今はここまでのF崎の話を繋げるように、二番目の証言者の事を書いておきたい。
二番目の証言者であるF原に会ったのは、F崎の一度目の取材の翌年、2012年のことだ。F原は事件の二人目の当事者であり、その日警察が屋敷から保護した女である。
保護された時、F原は重度のストレス障害で一時的な失語状態になっており、当時は警察も証言を得ることができなかった。しかしその後のリハビリと本人の懸命な努力により、今は家庭を持ち普通の暮らしを送っている。私も取材に当たっては細心の配慮をもって話を聞かせてもらった。
F原は言葉を探すように、少しずつ、当時の様子を語り出した。
F原「大学の友達同士でね、当時はみんな時間を持て余しててさ、夜も昼も同じように遊び回ってて、いつもF島っていう男の子の車にみんなで乗って、夜通し当てもなくドライブしてたんだ。時間は腐るほどあったし、どんなに無駄遣いしても許される気がしてた。それに、楽しかったんだよね。……そう、それでその日はF美っていう都市伝説とか好きな子がさ、やばいスポットがあるって言って、あそこに行こうって言い出したんだ。……え? 都市伝説の内容? 確か昔の人が戦争中に作ったゾンビだか怪物だか、そういうのが今もあの屋敷の中をうろついてる、とかそういう話だったと思うよ。聞いた時はバカみたいな話だってみんなで笑って、でもあたしたちもバカだったからさ、結局あそこに行って、それで……、あんなことになった」
ここから先の証言は、警察でも聴取できていない当時の屋敷内の様子について触れたものである。F崎も類似の証言をしたと思われるが、F崎とF原の置かれた状況の違いから見て、F原の証言の方がよりその時の様子を克明に表しているものと推測される。
F原「あたしたちが屋敷に入ってからしばらくして、別のグループがやってきた。一昔前の不良みたいな、なんて言うんだっけ、あの髪型、そうそう、リーゼントに革ジャンみたいな、不良というかロックって感じ? あの警察に連れられてた男の子がいたグループだよ。あたしはその時、つけてたイヤリングを落としちゃって、一人で探しに行って、みんなとちょっと離れてたんだ。その当時は怖いもの知らずだったし、ゾンビとかお化けとか全然信じてなかったし、不良少年たちだって何とも思ってなかったからね、あたしたちも同じようなもんだったし。それで一人でイヤリングを探しに行ってた時に、あれを見たんだ」
ここで言うイヤリングは、私も後日現地を調査したが見つけることができなかった。警察の資料にも記載が無いため、まだ現地に残っている可能性がある。いくつか再調査したいことがあり、来月に再び現地を訪れる予定なので、その時にまた探してみるつもりだ。
F原「あたしがいたのは、大きな広間の横の廊下だったと思う。立ってたちょっと先に廊下の曲がり角があって、月明かりくらいだったんだけど、窓から少し光が入ってたんだ。それで……、その光で少し見えたんだ。曲がり角のところに、大きな目玉と、人の身体みたいな物が、立ってたんだ」
この「大きな目玉」は、F崎の証言内容と一致する。F崎の二度目の取材でも語られるが、目玉は人間のような身体を持っており、背丈は通常の人間よりもかなり高めで、特徴的な服装をしている。
F原「目玉は黒いスーツみたいな服を着ていて……、いや、スーツというか、なんて言ったらいいんだろう、結婚式で新郎新婦のお父さんが着るような……、とにかくちょっとイカれた格好でさ、特に気違いじみてるのが、こんなことを言っても笑われるだけだろうし、実際あたしもバカな事を言ってるとわかってる、けど、ほんとなんだ。あんたが信じてくれるかはわかんないけど、……目玉の上に、帽子が乗ってるんだよ。手品師が鳩を出すような、黒い大きな帽子がさ」
この奇妙な風貌の人物(性別は不明だが、仮に目玉男と呼ぶ)の外見も、F崎が後に語る内容と概ね一致している。もし本当にそのような怪物がいるとしたら、にわかには信じがたい話であるが、暗がりだったこともあり、ただ奇抜な仮装をしている人物がいたと考える方が自然だろう。もっとも「自然」と表現するには余りにも異常な姿ではあるのだが……。
F原「あたしは一瞬動けなくなったけど、すぐに逃げた。よくあそこでちゃんと足が動いたと思うよ。反対方向に逃げてる途中に、例の不良グループに出くわした。その時は気が動転してたから、助けを求めるよりも、とにかくあたしの友達に合流したくて、不良グループも避けて別の方向に逃げたんだ。そしてようやく広間への入口を見つけて中に入ったら、友達がみんないて……、あの時の安心した気持ち、あたし当時F美のことあんまり好きじゃなかったんだけど、友達はほんとに大事にしなきゃって思ったよ」
F原の話に出てくるF島とF美、それからF川という人物の合計四人が、F原のグループの構成メンバーだったようだ。F崎の方も四人グループで、屋敷に行くことを発案したF本、車を運転していたF宮、それから後日聞いた話だがF井という人物の計四人だったらしい。また、最後に屋敷に現れた第三のグループについては、残されたメンバーがいないため詳細は不明である。ただF崎とF原の証言から断片的に読み解くと、同じように興味本位でやって来た四人の若者のグループだったようだ。
F崎とF原以外の人物は皆発見されていない。無事であれば何かしら連絡や情報があるかと思うが、十年以上経過した現在でも消息は不明である。
F原「広間には、ほぼ同じタイミングで、不良グループと、もう一つ別のグループが入ってきた。別のグループは、不良グループよりも後に車でやって来たみたいで、あたしの友達がヘッドライトが光るのを見たって言ってたから、間違いないと思う。そして……、それからすぐに、あの化け物が広間に入ってきて……」
F原はそこで言葉を詰まらせた。ここからは、かろうじて聞き出せたその後の状況を整理して、出来る限り正確にその広間で起こったことを書き留めていきたい。
——
先月に書き始めた私のレポートは、そこで一旦終わっている。
というのも、より正確な記録にするために、計画していた現地調査を先に済ませてから、その結果と照合しながらまとめようと考えたからだ。
そして私は今F村から旧F邸に向かって車を走らせている。狭い山道で、対向車が来れば離合はできないだろう。もっともこれだけ静まり返った夜の山だ。私の他に車を走らせる者の気配もない。わざわざ夜間を選んだのは、静かな山村で余り人目に付くのも好ましくないだろうという判断と、できる限り事件当時と同じ状況で調査したいという意図による。
旧F邸は、私が以前訪れた時と変わらぬ姿でそこにあった。事件当時に張られた立入禁止のテープはほとんど落ち葉に埋もれていたが、今もなお不吉な何かを閉じ込め続ける結界のようで、踏み越える私の身体を緊張させた。私は超自然的な現象に対して特別な興味を持った人間ではないが、それでも屋敷を前にすると、先入観というだけでは済まない何か異様な威圧感が屋敷全体から発せられているように感じる。
私はまず正面玄関に回った。頑丈な作りの扉は以前と変わらず固く施錠されている。私はそのまま裏の勝手口に回る。屋敷の窓は大半が割られており、悪戯目的の侵入者が入口代わりにしたのであろう、いくつかの窓は枠ごと外されている。勝手口は玄関のちょうど反対側にあり、その鍵が壊されていることは前回の調査で確認済みだ。
勝手口から入ると、私は持っていた懐中電灯で床を照らしながら、F原が落としたというイヤリングを探した。証言によると広間の横の廊下で落としたという事だから、あるとしたらこの廊下のどこかに落ちているはずである。幸いこの屋敷は窓や勝手口などの開口部が壊されている以外、内部はほぼ無傷のまま残っており、瓦礫やゴミもほとんど無く探し物には好都合だ。元々の建築の作りが丈夫なせいもあるだろうが、それにしても異様なほど片付けられているようにも見える。
しばらく探したが、イヤリングらしき物は見つからない。諦めて屋敷の中を一通り調べたが、以前見た以上の物は発見できなかった。いつの間にか降り出した雨の音が、割れた窓から漏れてくる。残すは一箇所、あの事件の舞台となった大広間である。私は広間に沿った廊下を、念のためもう一度イヤリングを探しながら歩いた。
その時、廊下全体が瞬くように白く閃いた。瞬間、闇を引き裂く轟音が鼓膜を揺らす。
近くに落ちたようだ。しかしそれよりも、今の一瞬の閃光に照らし出されて、床の隅に小さな金属製の何かが見えた。懐中電灯を向けると、それは確かに女物のイヤリングだった。手を伸ばそうとした時、再び雷光が瞬いた。
その瞬間、私は見たのだ。視界の隅に、直立する二本の足。
雷鳴に重なるように、再び閃光。照らし出される人影。それは異常な背丈と、嵩高い紳士帽を被っている。そして帽子の下には……。
私は飛び退きつつ振り返り、近くの扉に滑り込んだ。扉を後ろ手で押さえつつ、素早く周囲を見回す。懐中電灯の光は、その巨大な空間の片鱗を映し出す。私はたった今の、自分の咄嗟の判断を後悔した。ここがまさに大広間である。十七年前、何人もの人間がここで姿を消した。いや、生き残った人間の証言を信じるなら、その者達は、この大広間で、恐ろしい怪物に惨殺されたのだ。
私は懐中電灯を遠くに向け、広間のちょうど対角に別の出入口を見つけた。あの扉は勝手口の方向だ。そのまま屋敷を出て、車まで走る。あの何者かは確実に危険だ。調査は一旦保留にする。まずはここから離れることを最優先とする。
扉に向かって走り出そうとした瞬間、目指すべきその扉が、突然乱暴に開かれた。私は動きを止め、息を殺す。何が起こるのか、開いた扉の向こうに、全神経を集中させる。
……まさか、そんなはずはない。私が部屋に入ってから、まだ十秒も経っていない。あれは、反対側の廊下の奥にいたはずだ。心臓が割れるように高鳴りだす。何か、異常なことが起こっている。扉から入ってきたのは、私の背後の壁越しにいるはずの、目玉男だったのだ。
私は入ってきた扉のノブに手を掛けたが、回らない。鍵が掛けられている。周囲を見回し、そばにあった岩陰に隠れる。……岩? どうしてこんな所に岩があるんだ。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。私はじっと目玉男の様子を伺う。
と、その時、どこからともなく岩が擦れ合うような不快な音が響いたかと思うと、目玉男がゆっくりと歩き出し、まっすぐ数歩進み、再び静止した。
それからしばらく目玉男が動く気配を見せないので、私は音を立てぬよう近くの岩の後ろへと移動した。この部屋は何かおかしい。大きな広間であるのに机や椅子などの家具が一つも無く、いくつかの不可解な岩が点在している。また、部屋全体に生臭い臭気と得体の知れぬ殺気のようなものが充満しており、まるで肉食動物の巣穴に入り込んだような錯覚を覚える。
私が移動するとすぐに、またどこからか硬い物が擦れるような音がした。直後、再び目玉男が歩き出し、短い距離を真っ直ぐに歩いて停止した。それ以上動く様子がないことを確認すると、私はまた少し移動した。近くにはもう隠れる岩が無かったため、思い切って壁沿いを少しずつ進むことにする。既に懐中電灯は消しているので室内はほぼ真っ暗だ。上手くいけばこのまま見つからずにやり過ごせるかもしれない。それに先程から妙な違和感がある。目玉男の動きが、どことなく作り物のようにぎこちなく見えるのだ。
間を開けず怪音が響き、また目玉男が歩き出す。そのまま直進してくれれば、その視界から私が消えるはずだ。もっとも目玉一つの顔がどれだけの視界を持っているのかは不明だが……。
あと少しで私が視界から外れる。奴の進行方向と私のいる方向がちょうど直角になった。そのまま通り過ぎてくれ、と願う私の思いも虚しく、目玉は私の真っ直ぐ前方で、九十度方向転換し、私の方を一直線に見据えた。
呼吸が止まりそうだ。今すぐにでも駆け出したくなるのをやっと堪える。走り出した瞬間、それが悪い結末へのラストスパートになりそうな気がする。幸い奴の動きは遅い。まだ待つべきだ。落ち着いて、観察するのだ。
目玉は私に向かって少しだけ直進した後、動きを止めた。私はまだ動かない。実は、私はこの目玉男の動きをある程度予測していた。というのも、F崎の証言に一部気になる点があり、その内容を強く記憶していたからだ。
F崎への二度目の取材は、一度目から三年後、2014年に行った。
一度目の取材がF崎の錯乱によって続行不可能となったので、私自身は彼の精神状態に配慮し、再度の取材を行うつもりはなかった。しかし三年を経過したある日、F崎の方から私に取材を希望する連絡が入ったのだ。
三年振りに会うF崎は、前に会った時よりも少しやつれているようだったが、目付きだけは妙な迫力を帯びているように見えた。
F崎は事件からずっと、ひどい精神的後遺症に悩まされてきたと言う。自分だけが生き残った事への自責の念、再び化け物が自分の元に現れるのではないかという恐怖感、事件当時のフラッシュバックなどが連日彼を苦しめた。かと言って彼の荒唐無稽とも言える体験に真面目に耳を傾けてくれる人もおらず、ついに耐えかねて、一度目の取材時に私が渡していた電話番号に連絡をしてきたのだった。
F崎は事件の様子や、今の彼自身の事などを、何度か気持ちの高ぶりを抑えきれない場面もあったが、それでも懸命に感情を制しながら、二時間ほどに渡りゆっくりと語ってくれた。
目玉男に比較的近い位置からその行動を目撃していたF原に比べ、F崎は終始物陰に潜んでいたため(そしてそれにより生還後の自責の念も強かったと思われる)、F原の情報より細部の正確性には乏しいものであったが、それでも私に強い引っ掛かりを残す一言があった。
F崎「あいつがF宮に向かって行った時、……F宮は動けなかったんだ、別に怪我してたわけじゃないと思う、ただ、……ビビっちまって、逃げられなかった。それを俺は隠れて見てたんだ。助けに立ち上がろうともせずに……。そしてあいつがF宮の目の前まで来た時、急に止まったんだ。ネジが切れたみたいに……。それでF宮は一旦逃げ出すことができた。だけど結局、最後にはまたF宮も……」
私はこの「直前で止まった」という目玉男の動きが強く印象に残った。だから今も、もしかしたら止まるのかもしれない、という期待の元に待ち構えていた。
この怪物は何かの仕掛けで動いている。動く様子からして機械仕掛けではなく生物である事は間違いないようだが、中に人間が入っているにせよ、未知の生物であるにせよ、何か一定の法則に従って行動している事は疑う余地がない。そうでなければ、こうして私を目の前にして静止しているはずがない。
それからもう一つ、確信に近い予想がある。恐らく目玉男は私が動いた後にしか動けない。なぜかは知らないが、これまでの目玉男の動きから考えると、私と目玉男が交互に動くよう決められているとしか思えない。そして次は私が動く番だ。
試しに私が扉まで走ってみたらどうだろう。私の後にしか動かないとすれば、そのまま扉を閉めて車まで走れば、目玉男は止まったままなのではないか。一瞬そう考えたが、もしそんな事が可能であれば、失踪した人間たちが成す術もなく殺された事に説明が付かない。私と目玉男が交互に少しずつ動く。余りにも不可解だが、きっとそれがこの広間でのルールになっているのだ。
私の心は依然として恐怖心で満たされていたが、同時に湧き上がる好奇心を抑え切れずにもいた。目玉男は私の五メートルほど前方に、こちらを向いて立っている。動き出す様子はない。私は消えた懐中電灯を、目玉男に向けた。我ながら正気の沙汰では無いと思うが、そうせずにはいられなかったのだ。
乾いたスイッチ音とともに懐中電灯の光が目玉男を照らす。沈黙が重油のように部屋を満たす。煌々と照らし出された目玉男は、それでも動かない。私は自分の推論と勇気を心中で誇った。やはり確信した。目玉男は、私が移動しない限り動かない。
私は足先からゆっくりと、目玉男の全身を照らした。
足に靴は履いていない。しかし明らかに人間の足とは異なる形態をしている。全身とアンバランスに大きなその足は、ピンク色のゲル状の物質に覆われ、歩く度に濡れ雑巾を落としたような音がする。表面が脈打つように動いており、それ自体が未知の二匹の生き物のようだ。
足首から上は上半身まで燕尾服に身を包み、両手は宙に投げ出され、前方の虚空を引っ掻くようにゆっくりと上下している。袖は左右とも引きちぎられたように無くなっており、裸の腕は腐った色に変わり、所々肉が剥がれ落ち骨が露出している。
身体の上には人間の頭部よりも大きな眼球が乗っている。ここからでは首の部分が見えないが、しっかりと安定して繋がっているようだ。黒目はやや青みがかっており、西洋人の虹彩を思わせる。その後ろには太い血管が白眼の上を放射状に伸びているが、裏側は見えない。
そして目玉の上には、黒いシルクハットが乗っている。普通に被るには大きめの帽子だが、目玉が不釣り合いに巨大なため、滑稽なほど小さく見える。
これはやはり機械ではない。何かしらの生命を持った生き物である。全身の形態は人間に近いが、まるで別の生物だ。着ぐるみのように人間が仮装している可能性はまだ完全に否定できないものの、私の直感はそれを拒んでいる。知性を持っているかどうかは現時点で判別できない。しかし無機物には無い意志のような物の存在を感じる。
ふと思い立って、スマートフォンを取り出した。今まで完全に思考から抜け落ちていたが、相手が動かないなら、写真に撮ることも可能だろう。私は懐中電灯を向けたまま、カメラ機能をオンにした。暗闇で上手く撮れるかわからないが、フラッシュを焚けば少しは写るはずだ。
短い光の点滅と、シャッター音。すぐに撮影画像を確認すると、ノイズのような物が写っているだけで、正面にいるはずの目玉男は少しも写っていない。もう一度撮影する。またノイズだ。何度撮影しても同じである。表示されるのは様々なカラーが乱れて現れたノイズパターンだけだ。そう言えば昔、特定の光線を使ってカメラのセンサーのみに信号を受信させるという盗撮防止装置の話を聞いたことがある。もしかするとこの部屋にも何かそういった仕掛けがあるのか? しかし、誰が、一体何のために。
……何のため。もしこの部屋が殺人のために用意された部屋なのだとしたら、理由は一つしかない。証拠を残させないためだ。正体の見えない強烈な悪意が、私に吐き気を込み上げさせる。一刻も早くここから立ち去るべきだ。そして、然るべき準備を整えた上で、再びこの屋敷を訪れ、全ての悪事を白日の下に晒す。そのためには、まず無事に脱出しなければいけない。
次に動くのが私の番であるなら、どう動くのが正解か。目指すべき扉まではまだ結構な距離がある。ここからは身を隠すための岩も無い。もう一度生還した二人の証言を思い出してみる。何か見落としている事は無いか。F崎が無事だったのはずっと岩陰に隠れていたからだ。それではF原は? 彼女は目前で友人が殺されるのを見ていた。目玉男の背後から、友人が無残にも解体される様を見ていた。しかし彼女は助かった。目玉男はF原がすぐ近くにいるのに気が付かなかった。そう、F原は……、「背後」から見ていたのだ。
私は思い切って目玉男に向かって直進した。そして、その横を通り過ぎて奴の背後に回り込んで、立ち止まった。私の予想が正しければ……。
また、岩が軋むような不快な音が響いた。目玉男が動き出す。湿った足音を立てながら、真っ直ぐに歩いて行く。背後にいる私に気付く様子は無い。私は目を瞑り、歯を噛みしめ、深く、ゆっくりと呼吸する。
……やった。予想通りだ。目玉男は後ろにある物に気付くことができない。このまま奴が停止した後、気付かれないように扉まで進む。私は懐中電灯で目玉男の背中を照らす。
だが、いない。奥の壁に向かって進んでいたはずの目玉男が、どこにもいない。私は困惑してそこら中にライトを向ける。……どこにもいない。
全身が泡立つ。体内で沸騰した血液が毛穴から噴き出すかのようだ。十人もの人間を手にかけた、いや、恐らくもっと多くの命をこれまで残酷に奪い続けてきたおぞましき存在、その殺意で固められた醜悪な気配が、今、あろう事か……、私の背後にある。
私と壁の間は一メートル余りしかなかったはずだ。しかし今、その隙間に突然目玉男が出現している。幸いにも動作は止めているようだが、これだけ接近されてしまうと次に何が起こるのか全く予測がつかない。一体どこから現れたのか。速やかに距離を取るべきだ。しかし思考が追いつかない。
私が取るべき行動は何だ。目玉男は壁を背にしているため、もはや背後に回り込む事は不可能だ。意を決してこのまま出口まで走るか、最も近い岩陰まで移動するか、あるいは振り返って攻撃を試みるのか。
いや、焦ってはいけない。今のところ目玉男がこれ以上動く気配は無い。追い詰められている状況だからこそ、たった一つの判断ミスが命取りになる。私は再び目を瞑り、深く息を吸って、吐いた。
一度これまでの状況を整理する。私と目玉男の動き、それからこの広間には暗黙のルールのような物があり、互いの行動はそのペース内で進行していると推測される。もしそれが真実なら、急に出口まで走ったり、目玉男に攻撃を加える事はそのルールを侵す可能性がある。ルールから外れた場合のペナルティーは、死であろう。どこかにこの部屋のルールブックが落ちていればいいが、当然そんな物はあるはずがない。そうなるとルールを推測するしかない。
目玉男は限られた距離しか移動しない。それは明らかである。そしてどこからともなく聞こえてくる怪音がその引き金となる。音の正体も突き止めたいが、私が無事にこの状況を切り抜けられてからだ。目玉男が動くと、次は私が動く番になる。互いの移動は一定の範囲に限られる。となると目玉男と私の動きを監視する装置、あるいは移動を感知する床の仕組みがあるのかもしれない。監視カメラだとすれば位置の変化により移動距離が測られる。床に仕掛けがあるとすれば圧力の掛かる位置か、歩数だ。
それから目玉男自身は前方または側方を認識しており、後方は認識できていない。基本的には直進し、対象を見つけると正確に九十度の方向転換をする。それは先程私に対して向きを変えた動きから推測できる。
直進、九十度の方向転換、移動距離の制限……。まるでプログラムされたロボットだ。もし移動距離の測定がカメラや床のセンサーによる始点と終点の座標変化によるものであれば、この移動パターンには違和感がある。わざわざ直進と直角の方向転換で移動するより、初めに三百六十度で方向を切り替えてから直進する方が自然だし、効率がいい気がする。
それなら距離は歩数で測っていると考える方が正解なのではないか。鳴り響く怪音は、特定の音のパターン、またはコウモリのように目玉男にしか知覚できない周波数の信号を含んでいて、目玉男が動く歩数を指示しているとは考えられないか。つまりはスイカ割りと同じだ。誰かが方向と歩数を指示する。真っ直ぐ三歩、右を向いて二歩、そこで木刀を振り下ろす。方向については目玉男自身が捉えた情報で決定しているかもしれないが、歩数は怪音が指示している可能性がある。それに目玉男の特徴的な足、雑巾を落とすような湿った足音、それを識別する床の仕組みがあれば、移動している対象を判別する事ができる。
その一連の推測は私に多少の希望を与えた。では、私が次に移動できる歩数はいくつだろう。十歩か、五歩か、もっと少ないのか。私の今までの動きを振り返れば少しは予測できるかもしれないが、何にせよ確実に言えるのは、私が移動した後に目玉男もまた何歩動くのかわからないという事だ。もはや私に隠れる場所は無いし、次に捕まったら何もかもが終わりだ。最も出口に近づいている今、何としてでもこの一回でそこに辿り着くべきだ。
私はできる限り冷静に、周囲の様子を観察する。壁から天井、床の隅々まで懐中電灯の光を走らせていると、出口付近の床に、何か黒っぽく反射する一帯を見つけた。目を凝らすと、黒い液体が水溜りを作っているようだ。その水溜りは私が立っている場所に向かって、引き摺ったように伸びている。……いや、これは黒ではない。赤だ。尋常でない量の血溜まりが、出口の扉からこちらに向かって伸びているのだ。この血液が一体誰の物で、いつ流されたのかは不明だが、目玉男がこの部屋に入ってから移動する間に、血溜まりが直線的に引き伸ばされてこのような形になったのだ。
その時、私の脳裏に危険なアイデアが閃いた。もし歩数がカウントされているのであれば、一か八かになるが、試してみる価値はあるかもしれない。いや、それ以外にもう手段は無い。
私は出口に向き直り、少し後ろに仰け反った後、弾みを付けて跳躍した。そして、直線状に伸びた血溜まりに、足先から滑り込むように突入する。大量に溜まった血液と、目玉男の足から垂れた高粘度の体液が、私の体をそりのように滑らせる。私は血飛沫にまみれながら、そのまま出口の扉を抜けると、窓枠の外れた暗闇の中に飛び込んだ。
まだ生きている。私は生きている。屋敷から車に向かって走りながら後ろを振り返ると、雨と闇に包まれた屋敷の巨大な影だけが見えた。
大丈夫だ、このまま逃げ切れる。そう思った瞬間、何か硬い物に足を取られ、ぬかるんだ地面に倒れ込んだ。激痛が足首を貫く。負傷した箇所を庇いながら懐中電灯を拾う。何が起こったのか、辺りを照らしてみると、土に汚れた墓石のような物がいくつか地面からせり出している。
おかしい。来た時はここに墓など無かったはずだ。それに、たった今土から掘り出したように泥まみれである。よく見ると泥に汚れた表面に、何か文字のような物が読み取れる。……数字だ。「5」や「8」などの数字が、墓石の中心に血のような赤色で描かれている。これは何の数字だろう。いや、しかし今はそんな事に構っている場合ではない。私は痛めた足を押さえながら立ち上がろうとする。
その時、私の足元から、再びあの岩の擦れるような不快な音が響き、地中から新たな墓石が、私の目の前にゆっくりとせり上がってきた。だが、私の目前に現れたその墓石に描かれていたのは、数字ではなかった。そこにあったのは、まるで墓に刻まれた傷口のように生々しく、赤い、十字架だった。
私は再び屋敷を振り返る。足首に激痛が走る。瞬間、空全体が眩しく閃き、屋敷を白く照らし出す。そこに私が見たのは、壊れた窓からこちらを見つめる、目玉男の姿だった。私は手負いの獣のように見苦しく這いながら、車があるはずの暗闇の中へ、 ただ一心不乱に進んでいった……。
——
寒さもいくらか和らいだ早春のある朝、F崎は一通の封書を受け取った。差出人の名前はどこかで見た覚えがある。中には簡易的に製本された一冊の文書と、一枚の手紙が入っていた。
「F崎様。突然の手紙で失礼します。2011年と2014年、二度の取材の際は貴重なお話を聞かせて頂き、誠に有難うございました」
手紙は、数年前に取材を受けたジャーナリストからの物だった。当時の取材協力への礼、そしてそのお陰で事件について詳細にまとめる事が出来たとの感謝の言葉から始まっていた。
「当事者の方々の証言、入手した警察の捜査資料、事前に私が調査した内容、それに私が実際にあの屋敷で体験した恐るべき事実を加えて、まだ未完成ではありますが一冊のレポートとしてまとめる事ができました。私は近々これを完成させて発表するつもりでいます。前もって当事者であるF崎様には一度ご覧頂くべきかと思い、こうして不躾ながらお送りした次第です」
冊子を手に取ると、かなりの枚数である事がわかる。表紙には「旧F邸集団失踪事件レポート」と印刷されている。
「とは言え、F崎様のご心情もありますので、無理して読んで頂く必要はありません。その場合でも個人のプライバシーや表現には最大限配慮しています。また、今後追記する内容についてもF崎様に関する事柄を加える予定はありません。もし内容についてご意見がありましたら、◯月末日までに下記までご連絡ください」
その下に、連絡先の電話番号とメールアドレスが書かれている。それを見てF崎は、以前自分が精神的に追い詰められてこのジャーナリストに連絡を取った時の事を思い出す。あの時に心の内を全て曝け出したお陰で、F崎自身もまたいくらか救われていたのだ。
「このレポートを発表する前に、私は再度旧F邸を訪れる予定です。事件の肝心の部分は未だ解決していません。あの屋敷に潜んでいるのは何者なのか。誰が、何の目的であの猟奇的な広間を作ったのか。それらが未解決のまま発表された時、興味本位のさらなる犠牲者を出してしまう事を懸念しているのです。事実、私もあの屋敷で命の危険に直面しました。発表する前には、私の手で必ず事件の真相、不可解な屋敷の謎を解明すると約束します。もし新たにお知らせすべき内容があれば、その際は改めてご連絡を致します」
F崎は手紙を置き、再び冊子を手に取った。目を閉じて、事件当時を思い出す。苦しい記憶だが、長い年月をかけて乗り越えたつもりだ。目を開け、表紙に手を掛ける。
表紙をめくると、それはこう始まっていた。
「あなたは『旧F邸集団失踪事件』をご存知だろうか——」
- タイトル
- Fearsome Floors
- デザイナー
- Friedemann Friese
- アートワーク
- Maura Kalusky
- パブリッシャー
- 2F-Spiele
- 発売年代
- 2000年代
- プレイ人数
- 6人以上
- プレイ時間
- 1時間くらい
- 対象年齢
- 小学校中学年から
- メカニクス
- グリッド移動